2018年06月28日

祖母の葬儀当日

本日の11時より家族葬。俺は出席しない。家で留守番と犬の面倒を見る役目だ。まあ俺が出て行くと色々とややこしいだろうから別にいい。だから昨日のうちに線香をあげに行ってお別れは済ませてきた。これで俺の役目は終わり。あとは両親と弟がやるだろう。

うちの両親は共働きだったので、幼少期から小学校時代は祖母に面倒を見てもらっていた。弟も小学校3年生ぐらいまではそうだ。お世辞にも褒められた人じゃなかったし、娘(母)との確執もあった。母は祖母に対して批判的だったし、その母を通して祖母を見るとどうしても嫌な部分だけが目立つ。しかし俺たち兄弟にとっては子供時代の唯一の保護者だった。直接的に嫌な思いをした事もあまりない。同じ家族の間でも感情の部分では温度差がある。

祖母の遺骸を前にして、俺が思ったのは「終わったね」という事。様々な終わりがある。人生の終わり。認知症と要介護の終わり。母娘の確執の終わり。孫である俺と弟との終わり。それらは遺された側にとっても同じ事。葬儀のセレモニーというのはきっとそのためにある。つまり一人の人間、あるいは動物との関わり合いの終わりを目に見える形で表現し認識させる。これは次に行くためのステップなんだろう。

昨日は在りし日の祖母との思い出が頭に去来して、正直辛い部分もあった。こんな時、昔はそれを恥じたり感情を押し殺したりしようとしていた。でも今は違う。振り払っても浮かんでくる思いはそのままにしておく事にした。強迫性障害との付き合い方を訓練してきた経験が役立った。人は何かを失った時、どうしても後悔や罪悪感に苛まれるものだ。ただそれを今更抱えてもどうにもならない。忘れるのがベストなのかもしれない。すぐには無理だから「あるがまま」の姿勢で居るのがいい。そう考えた。

91年と5ヶ月。一世紀近い時を生きた。そのうちの三十数年を共に過ごした。それはまぎれもない事実。その時間は主に俺の幼少期から青年期と共にある。今にして思えばいい時代だったかもしれない。両親は若く、俺たちは子供で、家に帰るといつも祖母がいた。そんな淡い色した思い出が、それでも確実に存在する。きっと自分が死ぬまで残るだろう。それを胸に今日からまた生きてゆく。

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posted by YU320R at 09:03| Comment(0) | Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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